summer#03

『Summer vacation Quartet』 #03 *天ヶ瀬あかね編


#03/ポロリと鼻血と歯磨きセット

サマーバケーション・カルテット

――#03

 草津月館(くさつづかん)は、青ノ浜の海岸を一望できる少し小高い丘に建てられている純和風な温泉旅館だ。
 夕食には、近隣の海で獲れた新鮮な魚介類を使ったお寿司がなんと食べ放題という豪勢なものであった。体調を崩してそれにありつくことができなかった凪がひどくガッカリしていたのも頷ける。
 さて、昨年合宿で使った貸切の共同ペンションとは違い、それなりの宿泊費である草津月館に、高校生だけの貴之達御一行は少々浮いていた。
 勿論これにはワケがある。草津月館は花房了輔の叔父が営む宿なのだ。演劇部では夏合宿が中止になっていたのだが、凪との合同練習にほとんど時間が取ることができていなかった了輔は、なんとかして練習の場を設けたいと思っていた。
 そこに貴之達から旅行への誘いを受けた事は、本当にラッキーであったといえる。叔父の経営する旅館ならばある程度融通も利き、凪との演劇練習の時間も取れるだろうと踏んだのだ。
「これなら君達でも余裕だろう?」
 叔父との交渉のすえに了輔が叩きだした二泊三日の格安料金プラン。
 貴之達の答えは――確かに安い。高いけど安い。であった。

「ぷひー、風呂上りにコーヒー牛乳は無敵の組み合わせ! それが温泉だとまた格別!」
 温泉から上がり一息ついたところで、シエルは、浴衣の胸元を大きく開けて風呂上りの火照った身体を冷やしていた。勿論その片手には大好物のコーヒー牛乳、空いた方の手は腰という王道のポージング。
「にしても、バイト代、ふっとんだなぁ……」
 諭吉さんを二枚以上を気前よく出せるほどシエルの財布は裕福でない。一応は苦学生の部類に入る彼女にとって、五桁の出費はなかなかの痛手であるのだ。
 少しガタが来ていた食卓の椅子を買い換える計画は頓挫した。それと欲しかったゲームソフトも恐らく発売日に手に入れることはできまい。
 ならばいっそ同行しなければ良いのではないか? もし彼女にそんな事を言おうものなら、激怒する事は間違いない。私抜きで楽しそうな事をするなんて許せない、と。
 楽しい時は、楽しい事だけを考えるべきだ。シエルは自分の行動理念を思い出しながら、コーヒー牛乳と共に他愛のない悩みを一気に飲み干した。
「うう、シエルちゃんもう少し恥じらいを持つべきだって、あれほどいってるのに」
 胸元から大事な部分が見えてしまいそうなシエルのあられもない姿に、毎度の事ながら円は頭を悩ませていた。どうにもシエルの立ち居振舞いには女性らしさが欠けている。幼い頃から貴之と和泉と同じように遊んでいた為に思考が男子よりなのだ。
 一方でフランス人の父親譲りである金髪碧眼、小柄ながらも豊満な肉体は、女性としての魅力を大きく放っていた。小悪魔的といってもよい。ようするにアンバランスなのである。

「せめてブラはつけようよ……」
 円が大きく溜息をつきガックリと肩を落とす。十七歳にもなって未だ中学生男子のようなシエルの行動に、あまり頑丈ではない円の胃はいつもしくしくといたむのだった。
「いいじゃん、人気も少ないんだし、別に」
 円の悩みを意に介せず、手のひらをパタパタと振りながら答えるシエルに、円は項垂れた顔を起こそうとしない。
「誰か見てる見てないとか、そういう事じゃないんだけどなぁ……」
 シエルとしては、他人に見られる心配がない場所でまで女である自分を過剰に意識する方がストレスが溜まるのだ。残念ながら羞恥心という言葉は、シエルにとって世間一般でいう意味よりもっと合理的なものらしい。よって、円からいくら注意されてもこのクセを直す事はなかった。
「まま、そう気を落とさないでさ」
 円の肩を軽く叩いたシエルは、休憩所入り口の空瓶置き場へと歩き始めた。
 普段は高くまで積み上げられているであろう箱も、回収されてからそう時間が経っていないようで、今は空っぽの箱が一段あるだけだ。
「あれ、でもこれって一番乗りってことじゃない?」
 シエルはよいしょと座り込むと、床に置いてある箱へと手を伸ばし空瓶をストンと落とした。その時――
「あ……っ!!!」
 少し遅れて湯から上がったあかねは休憩所に現れるやいなや叫び声をあげた。いや、正確には口元を自らの手で抑えこみ、叫び声を飲み込んだ。
「お、あかねさんじゃん。三咲さんとイチャイチャしてるかと思ったら、案外早く――」
「…………!!!」
 血相を変え、小走りで近づいてきたあかねは、シエルの襟元を掴むとギュッと強めに締め付けて整えた。
「……シ、シエルちゃん、胸出てたよ!」
「え、マジで」
「誰も居ないからってあんまり無防備なのはどうかと思うよ」
「め、面目ない」
 あかねの注意を受けながらシエルは視線を落とした。どうやら、胸元がはだけていた状態で屈んだせいで、胸が浴衣からこぼれ落ちてしまったようだ。などと冷静に考えながら顔をあげる。
 ――そして気が付いた。あかねの後ろに立つ、人影に。
「い、イズミ」
「よぉ」
 あかねもその言葉に慌てて振り返る。
「あ、あれ? 結城くんいつからそこに……って、何それ!」
「ん? なんかおかしいか?」
 和泉の鼻から伸びる一筋の赤いライン。先ほどのぼせた時に出た鼻血が再び流れ出して来ていた。少量だった為に、本人もまるで気が付いていない。なんという運命のいたずらであろう。この状況で鼻血とくれば、もはや誤解を招くというレベルですらない。
「はは、シエルと天ヶ瀬もそんなくっついて、なーにやってんだが」
「見たのか……」
「は?」
 あかねの手をゆっくりと自分の浴衣から離すと、シエルはユラリと腰を落とす。その姿はまるで歴戦の勇者。コロシアムよろしくのレスリングスタイル。
「あ、結城くん、あのその……鼻が」
「鼻?」
 あかねの言葉に、和泉は自分の鼻へと手をやり――
「は、鼻血!? 畜生、まだ出て……」
「おまえなぁ! 私のおっぱいなんかで欲情してんじゃねぇぞ!!!
 シエルの超低空から繰り出されたタックルには、さすがの和泉も体勢を崩す。
「ぶほっ!」
 そんな騒動に気が付いた円が慌てて駆け寄ってきた。
「ち、ちょっと何やってるの!」 
 ソファに押し付けられる形で倒れこんだ和泉へと、シエルが昼間のデジャブを感じさせるように再び馬乗りになる。
「ちょ、てめぇ、何すんだよ!」
「私のおっぱいで鼻血とはいい度胸だなぁ、この猿!!!」
「さ、猿だと!? つかお前の胸なんか興味ねーっつの!!!」
「な、なんだとぉ!? おっぱいだけが自慢の私に対して酷い言い草だな!!?」
「おまえは、どうしてぇんだ、って馬鹿!! 腕噛むな!!!」
「ぐぎぎぎぎ!!!」
「あわわわ」
 急いで止めに入ろうとする円の手をあかねはギュッと握る。
「あ、天ヶ瀬さん……?」
「もう……どうする事もできないのよ……」
 悲しげな顔でうつむくあかねは、静かに首を横にふった。
「え、いやいや、なんか楽しんでない、天ヶ瀬さん!?」
「くらええええええええやあああああ!!!」
「う、うあああああああああっ!!!」
 老舗旅館には似つかわしくない、女子高生の奇声と男子高校生の悲鳴が深夜のロビーに響き渡った。

「ちょっと我慢してね、和泉くん」
「痛ってー……爪たてるとか反則だろうが……」
 ブツブツと文句をいう彼の腕に、三枚目の絆創膏を貼る円。
 シエルとの乱闘後、トボトボと男子部屋に戻った和泉だったが、円は救急箱をもってヒョイっと現れた事で一時の幸せを手に入れていた。だが、文句を言いながらも気を許すとニヤけそうになってしまう顔の筋肉コントロールに、実のところは必死であった。

 今頃、シエル達は了輔の叔父であるオーナーに怒られているのだろう。その事を思えば、想い人と二人きりなど、まるで天国である。
 騒ぎを聞きつけたオーナーは、了輔を筆頭に騒ぎの中心であった一同を、事情聴取のため管理人室へと連行していった。すでに現場にはおらず、一人温泉につかっていた凪は、さすがのジェントルメン了輔の見事なカバーもあって、難を逃れていた。
 また、シエルの猛攻により顔や腕を傷だらけにしていた和泉も、円やあかねの弁護でこれまた無罪放免となっていた。
「しかし、こんな夜中に……ご苦労なこったな」
 シエルのご乱心と、庄治と了輔のらんちき騒ぎにより、オーナーである了輔の叔父も、さすがに注意せざる得なかったようだ。もはや時刻は深夜零時を回っている。この騒ぎで一番の被害者である和泉でさえも、オーナーに申し訳なく感じてしまっていた。もっとも、目の前で自分の治療をしてくれている円との時間を作ってくれたことに対して、最上級の感謝もしていたのだが。
「よし、消毒もしておいたし大丈夫だと思うよ」
 畳の上で丁寧に正座をした状態で治療を続けていた円が、和泉の顔に二枚目の絆創膏を貼り終わった。
「……ありがとう、助かった」
 旅行用の携帯緊急箱に傷薬をしまいながら、円は礼を言う和泉へとそっと視線を向ける。
「本当に見てないんだよね、シエルちゃんの、その……」
「な、なんだよ、円までそんな事言うのか?」
 ううん、と円は慌てて否定すると救急箱の蓋をパタンと勢いよく閉めた。
 和泉とシエルの乱闘騒ぎには、さすがに従業員も慌てて駆けつけた。
 普段の喧嘩と違いシエルも胸を見られた恥ずかしさが後押しをしたせいなのだろう。その攻撃には手加減がなかった。じゃれ合いと本気の喧嘩では、収拾のつけかたが変ってくるというもの。だからといって、女子に手を上げるほど和泉も小さい男ではない。結果としては、混乱したシエルを和泉が押さえ込むという形になったわけだ。
 その時にひっかかれた傷は五カ所。腕はともかくも、顔に張られた二枚の絆創膏が痛々しい。
「くっそー、鼻血といい、今日の俺は流血が多すぎるぜ……」
「和泉くんが、そんなのぼせるまで入ってるからだよー」
 一息ついた円が、優しく和泉の腕についた傷を人差し指で撫でた。
「え、あ……」
「大した事なくてよかったね」
 円がにっこりと笑う。
「たたたたた、大した事ありますが!?」
 確かに大した傷ではない。だが先ほど裸体を妄想していた相手がこうしてかいがいしく手当をしてくれている。頬にかすかに残る指の感触で健康な一高校生が舞い上がってしまうのも無理もない。
「なーに、どもってんだよ」
「あ、お邪魔だったかな?」
「なっ!?」
 急いで周囲を見渡す和泉が、その声の出所を発見するにかかった時間は一秒未満。まさに光速の反応である。そこには、部屋の入り口から仲良く頭だけを上下に並べて出す貴之とあかねの姿があった。
「あ、二人ともおかえりー」
 焦る和泉とは正反対に、のんびりと円が手を振る。
「ちぇっ……」
 和泉はあかねと貴之がスリッパを脱ぎ部屋へと入ってくる姿を和泉は目で追いながら、こっそりと舌打ちをした。
「あれ、本当にお邪魔だった?」
 隣に腰掛けたあかねが和泉に小声で尋ねた。
「え! そ、そんな事はないですじょ!?」
 動揺する和泉を怪訝そうに見ながら、貴之はそのまま自分の鞄の元へと歩いていった。
「天ヶ瀬、この事はアイツには言うなよ」
「……え、もう気が付いてる思うんだけど」
 こそこそと話し合うあかねと和泉を、ニコニコと見守る円。
「いつの間にか二人とも仲良くなってるんだものなぁ。ねぇねぇ、何の話をしてるの?」
「うぐっ!」
「おうちっ!」
 急に現れた円の無邪気な笑顔に、あかねと和泉は頭を押えてのけぞった。
 さすがに恋の悩みの張本人を目の前にしては、和泉もこれ以上言葉を紡げない。当然、あかねにしても同じ気持ちである。
「だから、何やってんだよお前らは」
 鞄から歯磨きセットを持ち出してきた貴之が、まるでコントのように背筋を伸ばし細かく震える二人の横を通り過ぎていった。
「で、どうだったかな? 天ヶ瀬さん」
 二人の様子を若干スルー気味で、円があかねへと声をかける。
「うん、シエルちゃんはしょうがないとして、やっぱり花房くんと丘村も相当うるさかったみたいで」 
「あいつら声でけーからな……」
 円の穢れなき笑顔という、ちょっとした精神攻撃から立ち直った和泉も会話に参加してきた。
「僕達もなんだかんだいって止めようとしなかったわけだし……花房の叔父さんには申し訳ない事になっちゃったな」
 貴之も洗面所から少しばかり大きな声を出す。オーナーに事情を話すべく残った貴之とあかねはその責務を終え、先に部屋に戻ってきたが、迷惑のもとになった3人はまだ油を搾られているらしい。
「あれ? そういや三咲さんはどうしたの? 彼女は怒られてないんだよね?」
 その場をキョロキョロと見渡しながら、疑問を口にする円。
「それはかなり悲しいお話になりますが……」
 目を伏せるあかねに、和泉と円がハテナ顔になる。
 と、洗面所から現れた貴之が、歯ブラシを口につっこんだままその問いに答える。
「凪なら、夕飯食ってないからおなか空いたって、さっき自販機のカップ麺にお湯を入れてたぞ」
「うわぁ気の毒に……そりゃ聞かなきゃよかったわ……」
「そ、そうね。あの夕食の代わりがカップ麺なんて……」
「だからほら、あとで優しく迎えてあげましょう!」
 三人は顔を見合わせて神妙に頷き合うのであった。
「これじゃ、余計に凪も落ち込むだろうに」
 何故か一致団結する三人を、貴之は不思議そうに眺めながら洗面所へと帰っていった。
「あ、そうだ私も歯磨きしようっと。貴之、歯磨き粉使わせてね」
「んあ、歯ブラシなら一緒に出したぞ」
「うん、ありがとー」
「……え?」
 そんな二人のやりとりに、目をパチクリさせる円。勿論、和泉も呆気に取られている。
 無言になった二人の目の前をあかねが軽い足取りで通りすぎる。貴之から赤い歯ブラシを受け取ったあかねは、鼻歌まじりで歯磨きをの蓋を開ける。
「え? どういうこと?」
「え、なんだ、これ……」
 あかねの歯ブラシを貴之が持ってきた。
 これは勘違いされない方がおかしい。その辺りの説明をごっそり抜かしていることに気付かないところが、いかにもバカップルであり、貴之達としてもバカップル呼ばわりされることに反論しにくい弱点である。
「ふ、二人はもうそんな仲なのか!?」
 キョトンとした顔で、和泉の声に振り向く二人。
「仲って……何がぁ?」
「ガラガラガラッ」
 全くお構いなしに歯磨きを続ける貴之達に、いち早く立ち直った円が声をかける。
「な、なんか、そうやって二人並んでると、本当の夫婦みたいだね!」
 これで気を利かせた言葉だと本人は思っているのだからタチが悪い。
「ブホーーーーッ!!!」
「ゴクンッ!!!」
 円の天然な一言に盛大に咳き込む二人。
「うわぁぁ、貴之……の、飲んじゃったの!?」
「…………うっぷっ」
 うがい水を飲み込んでしまい餌付いている貴之。それを驚いた顔で見つめる円。そんな二人の様子にはお構いなしに和泉は全く別のことを考えていた。
 ――これはチャンスなのではないだろうか?
 今のセリフから見るに円はすでに貴之をすっぱりと諦めていると分かる。ならば、少しでも彼女に踏み込んでいくべきだ。そう、勇気をもって!
「……結城が勇気を持って、だ!」
 誰にも聞こえない小声で、くだらないダジャレと共に拳を握り締めた。顔面偏差値とのギャップが激しすぎる和泉の真骨頂である。
「あ、あのね、月島さん。この歯ブラシはシエルちゃんが買ってくれたものなの。ほら、貴之の家に去年の終わりに泊まったじゃない? あの時から置きっぱなっしだったやつ」
「……? ……ああっ、あの時の!」
 円は少しだけ考えたあと、両の手のひらをポンと合わせた。
「……うえぇぇ、そういうこった。ずっと家に置きっぱで使ってなかったからな。わざわざ買うよりもと思って持ってきた……ってか気持ち悪い」
 貴之が涙目であかねの説明に補足を加えた。
「ところで、あのさぁ……ど、どこが夫婦なんだ、僕達の」
「え、同じ浴衣で同じポーズで仲良く歯磨きなんかしてたら、そう思っちゃってもしょうがない……よね?」
「……そ、そうか。うぐっ……ちょ、ちょっ、まだ、うえぇ……」
 円の言葉に戸惑いながら答えた貴之だったが、歯磨き粉の意外すぎるダメージに再び餌付きだす。そんな不甲斐ない彼氏の姿に冷やかな視線を送っていたあかねが、ただならぬ形相の和泉に気が付いた。
「…………っ」
 懇願する彼の目に、あかねもピンと閃く。
 ――なるほど、結城君。その願い、あたしが叶えてあげようではないか!
 あかねは大きく深呼吸をした後に、満面の笑みを円に向けた。
「でもさぁ、さっき部屋をのぞいた時、仲良く座ってたじゃん、結城君と月島さん。あれも、中々イイ感じのカップルに見えたよ!」
 言ってやったぞ、とあかねは歯ブラシを握る手に力を込めたのだが。
「…………そ、そ、そう………だだだろ…?」
 肝心の和泉が舞いあがって使い物にならなくなっていた。
「ふふ、和泉くんと私がカップルかぁ。なんか面白いね、そういうのも」
 自分で振った話題であるにも関わらず、カップルだと言われた事で過剰な意識と妄想が混ざり合い、和泉の頭は沸騰していた。しかも何故か円にサポートされる始末。
「し、しょうだりゃ……」
 うつむいて鼻をかく和泉に、あかねは開いた口が塞がらなくなるほどに呆れていた。
「……うぇぇぇ」
 そして後ろを振り返ると洗面所に向かって項垂れる貴之の姿が。
 あかねの思い描いていた恋人同士のロマンチックな夜。
「そんなものはなかった」
 彼女の悲しみに満ちあふれた呟きが虚しく夏の夜に消えていった。

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