『Summer vacation Quartet』 #02 *天ヶ瀬あかね編


#02/正義と貧乳と三咲流合気道

サマーバケーション・カルテット

――#02

「おっぱい……」
 ――唐突だった。
 それはしかし空耳ではなかった。 
「はっ?」
「へ?」
 なんだ、今のは誰だ、と言わんばかりに、この状況に相応しくない奇妙なワードが会話の合間に挟まった。気が付けば、先ほどまで寝転がっていた凪は身体を起こしている。まだ気分が悪いのか、蒼白な顔のままだっただが、意識はしっかりと戻っているようだ。
「ふ、二人ともそんなにおっぱい大きいのに! もっと心も大きく持てばいいのに!」
 凪はイライラとした雰囲気を漂わせ、その貧弱なボディ、もといスマートな身体を覆う少しだけ大人っぽい青いビキニのお尻の部分を指でいじりながら、二人を睨んだ。
「ひっ!!」
「はうっ!!」
 凪の視線が、あかねと円に冷たく突き刺さる。
「なんで、いっつも二人はそうなんですか? 仲がいいくせにいっつも遠慮しちゃって! そしておっぱい大きいくせに!!」
「は、はい! って胸は別に関係ないんじゃ……」
「み、三咲さんだってその、可愛らしい胸じゃないですか?」
「こういうのは、可愛いんじゃなくてみすぼらしいって言うんです!!」
 まるで駄々っ子のように、凪は砂浜を両手でバンバンと叩いた。
「え、でもさっき凪、あたしの胸は小さいって……」
 どちらかというと美乳と呼ばれるだろう、大きくはないが形の整った胸を、あかねは赤いビキニ越しに押さえた。
「あかねちゃんの大きさで本当に貧乳なわけないじゃないですか! 私からすれば大きい方です! 貧乳を舐めないで下さい!」
 凪の自分勝手な言い草に、きょとんとする二人。
「まじか……貧乳を舐めるのってダメ……なのか」
 すっかり存在を忘れられていた庄治がひどく落胆した声で呟いた。呆然と立ちすくむ男の腕からは力が失われ、抱えていた三本のペットボトルは、砂浜へと落ちるとゴロゴロと転がった。
「全てのおっぱいを揉み、舐めることがオレの夢であるのに、貧乳は対象外だなんて……」
「ひ、ひぃ!」
 日差しを背にして、まるでゾンビのように生気のない庄治の姿に、負けず劣らず顔色の悪い凪も短く悲鳴をあげた。
「あ、あ、あほかあああ!!!」
 あかねは立ち上がると庄治に再び蹴りを入れた。力なく倒れこむ庄治。
「は、白昼堂々、おっぱい舐めるとか頭沸いてんのかって……、あれ? 丘村、ぎゃああああ!!白目剥いてるぅぅぅ!!!」
「は、はううう」
 怯えきっている凪は、先ほどまで啖呵をきっていた少女とはまるで別人である。
 あかねが彼女を小動物のように可愛がる様を初めて見た時は、まるでリスか何かを彷彿させたが、実はこの少女は猫なのかもしれない。ある意味パニック状態の中にいるにもかかわらず、円はそんなことを考えていた。
 
 それにしても、先ほど凪が割って入ってくれなかったら、おそらく円は口を開くことができなかっただろう。無論、あかねも同じであったはず。あの状態を長く続けていたら、気まずい…とまではいかないにしろ何か引っかかりを残す旅になっていたかもしれない。そんな空気を凪は誰よりも早く察し、払拭してくれたのだ。
「ありがとうね、三咲さん」
「えっ? あ……はい、いえ、急にすいませんでした」
「でも、おっぱいはいかがなものか」
 円はクスクスと笑い、凪へと視線を投げかけた。
「あ、あれは、忘れてもらえると……気の迷いってやつです!」
 凪はばつが悪そうに目を逸らした。
 二人の関係をすばやく修復するために気を逸らそうとふった話題は、凪の内心に眠るコンプレックスだったのだ。あらためて考えてみると――
「はぁ、虚しい……」
 がっくりと肩を落とす凪の様子があまりに可愛らしく、円は自分の胸へと凪の顔を押しつけ、抱きしめた。
「むぎゅ!!」
「ふふ、どう、憧れのおっぱいは?」
 ちょっとだけ意地悪をしたい気持ちも分からないでもない。三咲凪という少女がみんなから愛される理由が、円にもなんとなくわかった。
「月島さんって、意外に意地悪です!」
 少しだけ怒った素振りを見せながらも素直に笑う凪を、円はもう一度凪を抱きしめた。

「胸の大きさでは勝ってるかもしれないけど、他は全敗だよ、私……」
 大きな感情が円の口から小さく零れる。凪の耳にも届かないほどに。
 あかねはこの屈託のない笑顔を見せる少女から貴之を奪う決断をした。大好きな人を得る為に、大好きな人を裏切る。自分には到底出来ないことだと円は思う。だからこそ、あかねの決断がいかに辛いことだったか、痛いほどわかる。
 今ここで、ニコニコと笑う凪を見てもそうだ。彼女は貴之を好きだった。でもあかねも好きだった。そして自分が身を引く事で、大好きだった二人を、大好きなまま許したのだ。これも円には真似できることではなかった。
 円のわだかまりは、あかねや凪へのものではなく、不甲斐ない自分に対するものだった。
 貴之の事はもう諦めている。あかねの事も大好きだ。二人を祝福したいという気持ちに嘘偽りはない。
 だが、純粋に貴之を好きな気持ちもまた本物だ。大好きな貴之の隣に居続ける努力をしなかった円自身の後悔は、少しずつだが確実の彼女にストレスになっている。
 割り切ったと思っていた事は、実は割り切れていなかった。円がそれに気付きはじめたのは、つい最近の事であった。

「く、苦しいです、月島さん、くるしい!」
「はっ! ごめんね!」
 考え事をしていたせいで、思いのほか凪をきつく抱きしめてしまっていたようだ。開放された凪は、そのまま仰向けに倒れこんだ。
「ああ、目がグルグルします~~~、気持ち悪いです~~~」
「あばばばばっ」
 円は慌ててペットボトルを拾い、まだまだ波酔いが残っている凪に駆け寄った。
「の、飲む? 気分よくなるかも、ホラ炭酸だから」
「待って!! おっぱいが舐めれないなら、せめて唇を!! オレが口移しで!!!」
「だまらっしゃい!!! アンタは懲りるって言葉を知らんのか!!!」
「ウゴポコッ!!」
 欲望を武器に一人の少年が世界に挑んだ戦い。その終着駅。
 股間を蹴り上げられた庄治が立ち上がることはもうなかった。
「く、口惜しやぁぁぁ……」

「やっぱりおっぱいだよなぁ!」
「ウム、僕もそう思うよ、おっぱいは正義だ!」
 旅館の廊下を歩く浴衣を羽織った少年ら二人の声が高らかに響く。
 時刻はすでに二十三時。人気が少ないのをいいことに、庄治と了輔はつい先ほどまで、あかね達が入っているであろう女湯へ聞き耳を立てていた。秘密の花園、めくるめく甘い話題の数々に完全に脳がやられてしまったらしい、二人はまるで酔っ払いのオヤジの如くゲラゲラと笑いながら闊歩していたのだった。
 それにしても絵面がおかしい。まるで芸能人のような了輔と、チビっ子オタクの庄治である。
「なんだアレ」
 休憩室のベンチでジュースを飲んでいた貴之は、二人が他の客から避けられている様を溜息交じりに見ていた。イケメンの了輔が居なければ、庄治などただの変態男子であろう。まぁ、十分了輔も変態なのだが。
「よかったな、丘村。同じく変態仲間がいて……」
 貴之は、了輔が白昼堂々おっぱいのもみ心地を聞いてくるような男だとは微塵も想像していなかった。何故女子の前ではあんなに完璧な姿を見せるのに、男子に対してはここまで心情を吐露するのかが理解できない。いや、理解はできるが、もう少し自分のキャラを自覚して欲しいと思っていた。
「そもそも、女の子の胸の柔らかさなんて僕も知らんつの……」
「あ、貴之さん、こんばんは」
「え!? あ、な、凪じゃないか」
「?」
「こ、こんばんわ」
 変態二人と入れ替わるように、ジャージ姿の凪がひょこっと姿を現した。幸いにも貴之の独り言は凪の耳には届いていなかったようである。
「え、えーと、も、もう気分は良くなったのか?」
「はい、おかげさまで。夕食は残念でしたが」
「ははは、まだ明日の夜もあるしな。それよりも案外平気みたいで良かったよ」
「面目ありません。体調もよくなったし、そろそろお風呂に入ろうかと思いまして」
 照れながらそういう言う凪が、よいしょと貴之の隣に腰を降ろす。先に風呂を済ませていた貴之からは温泉水特有の匂いがし、凪の鼻腔をくすぐる。
「今風呂に入るのはグッドタイミングだ。さっきダメ人間が二人歩いてただろう?」
「え? ああ、はい、丘村さんはともかく、あんな花房さんははじめてみました」
「だろうなぁ、僕もあんなヤツだと思わなかった。って、ああ、ちゃんと花房もダメ人間にカウントしてくれて話が早いよ」
「あ、しまった……って、そうじゃありませんね」
 凪がクスクスと笑う。こんな風にある程度までなら男子を絡めた冗談でも受け流せるようになった凪の成長に、貴之はウンウンと頷いた。
「立派になったなぁ、凪……」
「なんですか、それは」
「ははは、去年とは大違いだと思って」
 凪もそうですねと笑いかける。
「まぁ、あれだ。あかね達と一緒だったら、さっきの二人の耳に凪の声まで届いたわけだ」
「……ああ、なるほど」
「そういうこと」
「そういうことですか。なるほど確かにグッドタイミングでしたね」
 柔らかい笑顔で笑う少女に、貴之は安心しきっていた。たった一年。されど一年。人はここまで成長するのか。そんな事を思いながら、はたしてこの隣に座る少女に肩を並べる事が自分にはできるのか、などと貴之は考えていた。
「さて、それじゃ私もお風呂いってきますね、って、わあああ!!!」
「おお、三咲くんと相馬くんじゃないか」
「なんすか相馬くん、浮気っすか!! 浮気っすか!! ヒューーーッ!」
 凪の隣には、すでに立ち去ったはずの庄治と了輔が立っていた。
「お、お前らいつの間に……」
 唖然とする貴之に対して、二人は息のあったコンビネーションを見せる。
「そりゃ我が校の演劇部のマドンナが、こんな深夜に男性とのツーショット! 見過ごせるわけがないっしょ!!」
「うむ、そんな演劇部の主演男優としても、この状況は見過ごせないね」
 貴之、あかね、凪の関係を、完全に分かりきった上でからかう意地の悪い二人の少年であった。
「あ、いや、別に浮気だなんて、貴之さんはそんな事する人じゃありませんよ!」
 凪にだけはそれが伝わっていないようだが、それも三人にとっては想定内である。
「ははは、冗談冗談。凪ちゃん可愛いからついからかいたくなるんだよ」
「え、あ、冗談でしたか……」
「そうだよ、三咲くんがそんな事をする女子ではないことぐらいわかっているさ」
「お、お二人ともひどいです…」
 若干距離を保ちながらも、こうして他愛もない会話を男子と交わす凪。それは貴之の瞳には、まだまだ新鮮な姿として映っていた。
「大丈夫ですよ、三咲くん。僕らはいつでも君の味方なのですから。相馬くんに襲われそうになったら、すぐさま声をかけてくださいね。たとえ地球の裏側だろうと飛んでいきますから」
「そうだぜ、三咲凪ファンクラブの一桁会員としては、凪ちゃんを泣かすヤツは許せないからな! オレなんか月の裏側まで行っちゃうぜ!」
「おい」
 酷い言われ様な貴之が食って掛かる。
「どうせおまえら、さっきの温泉に凪が居なかった不満、というか鬱憤をここで晴らしてんだろ?」
「ギクッ!」
「声に出すなよ」
「ギクッ!!!」
「いや、なんで二人揃って声に出してんだよ」
「え、私のファンクラブなんてあったんですね、驚きです!」
 ファンクラブの話じゃないぞ、凪、と心の中で呟きつつ、貴之は二人を問い詰める。まさかとは思うがひょっとするとそうなのかもしれない、このおっぱい星人どもが凪にちょっかいを出す理由は。
「……おまえら、ひょっとして貧乳好きなんじゃないか?」
 おっぱいおっぱい叫んでいた二人だ。最も貧弱な身体を持つ凪一人が居なかったことなどはそれほど打撃ではあるまい。にも関わらず――
「はい!!」
「そうですとも」
 満面の笑みの二人。そして休憩室の静かで緩やかだった空気が一転する。
 そこには肩をワナワナと震わせる凪が。
「ひ、ひ、ひ……」 
 ああ、これは地雷にも程がある。涙声に変わった凪の肩を軽く押し出す貴之。三咲流合気道第六代目当主(仮)の顔がそこにはあった。
 空気が憤りで振動する。まさに電光石火。凪の身体が一瞬ふわりと倒れこんだその瞬間――
「え!?」
「うわ!!」
 休憩室のマットの上に大きな音が響く。コロリと転がされた二人の少年は天井を眺め呆然としていた。
「おお、かっこいい!」
 賞賛の声をあげパチパチと手を叩く貴之を、キッと睨みつける凪。
「あ、あはは、すまんすまん」
「ひ、ひ、く~~~!! 貧乳って言わないでください!!!」
 貴之の隣においてあった浴衣を手にした凪は青筋を額に浮かべ、ズシズシと音を立てて去っていった。
「だ、そうだよ」
 寝転がる二人に声をかける。
「ふむ、変だな。僕としては凪くんの個性を最大限に褒め称えたつもりだったのだが」
「だよなぁ、最高の褒め言葉だったはずなのに……」
「アカン」
 貴之は額に指を当て唸りはじめた。
 しかし、こんなどうでもいいエピソードが次の事件へとつながるのである。
 貴之にはまだ知る由もなかったが、昼間、二つの場所で湧き上がったおっぱい論争は、この後白熱、激化。その全貌を明らかにしていくのだった!

 ――その頃。
 女湯からかすかに聞こえる円の声に、あんなことやこんなことを想像して、完全にのぼせ上がって動けなくなった和泉は、一人温泉の隅に取り残されていた。
「あ、やっべ。鼻血」

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