Tea for Two #6

『Tea for Two』 #06 *天ヶ瀬あかね編


#06「天ヶ瀬さんは、自分も犠牲にしちゃってたんだね」

とらこん*Alternative 『Tea for Two』天ヶ瀬あかね編

――#06

 お菓子とペットボトルが雑然と並び、床に脱ぎ捨てられたジャケットと無造作に置かれた携帯電話。その部屋は、整頓された普段の印象とはまるで異なる様相を呈していた。
 相馬貴之の自室はいつも綺麗に整頓されている。彼は基本的に身の回りが散らかっている状態が好きではないのだ。
 彼の部屋に出入りするのも、親友である結城和泉、そしてシエルと円ぐらいのもので、時々「こんなつまらん男の子の部屋は認めるわけにはいかん」と、シエルが漫画や雑誌、果ては健全な青少年なら隠し持っているであろう本などをどこからか引っ張り出し、散乱させて帰っていく以外には、誰かに散らかされる機会もない。
 だが今日の彼の部屋は、シエルがいうところの「男の子の部屋としてあるべき姿」と言ってもいいほど混沌に支配にされている状態であった。

「イタタタッ!! ダメージ受けすぎ、死ぬ! 死ぬってば!」
「先輩、ダッサ!」
「オイオイ、そのぐらいは避けろよ」
 椅子に腰掛け、前のめりになる貴之。座布団の上であぐらをかき真剣な表情をする庄治。ベッドの上でうつぶせになって寝転がるシエル。緊迫した表情の三人が、それぞれ色違いの携帯ゲーム機を握る。
 彼らが熱中しているゲームは、発売から半年以上経過しているにもかかわらず、今なお人気を誇っているドラゴンハンターズ3rd、通称ドラハン3だ。
「なるほど!? そういうことか……シエルちゃんすげぇ!」
「この隠し通路から行ける崖のショートカットを使えば先回りできるってわけ! タカユキ、罠の用意できてる!?」
「……よし、いいぞ。追い込んでこい!」
 三人の熟練ハンターの発する熱が最高潮まで上り詰める。
「よし、捕獲!!!」
「うひょー! はえぇぇ! 五分針じゃん! シエルちゃん滅茶苦茶うめえぇぇ!!」
「おつかれっ」
 勢い良く体を起こすと、フンスッと鼻息も荒くガッツポースをするシエル。そんな彼女に専門用語らしきもので賛辞を送る庄治。 ぐったりと眠りこけるドラゴンを携帯ゲーム機の画面の中に見ながら、圧倒的なシエルの腕前に貴之でさえ感嘆の声をあげる。
「本当にすごいな。お前、半端なく上手くなってるじゃないか。どんだけやりこんだんだよ」
「んー、毎日三時間ぐらい?」
 飄々と答えるシエルに庄治が驚く。
「え? そんだけでこんなに上手くなるものなの?」
 三時間が短い時間なのだという辺りが、すでにゲーマーの発想である。それに気付いていない二人の会話に貴之は苦笑した。
 捕獲したドラゴンから剥ぎ取ったアイテムを確認しながら、持って生まれた才能か、と難しい顔をする庄治に、シエルは練習次第だと笑いかける。
 案外この二人は息のあったコンビなのではないかと貴之は思った。だがシエルと話している最中のだらしなくニヤつく庄治の顔付きは見るに耐えない。二人を引き合わせたことを、貴之は少し後悔していた。
「タカユキってば随分と下手糞になってるのな。正直私のパートナーとしては失格じゃないか?」
 貴之にシエルの軽い失望の声が飛ぶ。
「ぐ、そりゃ2の時ほど僕もやりこむ時間がなかったからしょうがないだろ……」
「ほほう? それは彼女持ちの自慢かな? 天ヶ瀬とイチャイチャしてたら、ゲームなんかやってる暇ないもんなぁ?」
 貴之の言い訳に嬉々として鋭いツッコミを入れる庄治。その顔もまたシエルと同じく悪戯好きな人間の顔付きであった。
「お、おま、なんか変な方向に話を持って行ってないか!?」
 急にあかねの事を振られ、貴之の声が裏返る。
「ゲームなんかやらずに、二人っきりで……ムフ。そりゃ腕も落ちるよね」
 シエルがニヤリと笑いながら庄治の話題に乗る。
「なんなんだよ、この一転して僕がいじられる空気は!」
「いいや、違うね! 甘甘だよタカユキ!」
「そう違うね! 最初からいじる気だったのさ!」
 シエルと庄治は目をキラキラと輝かしながら、さらにたたみかける。
「ようするに、オレ達はだな!」
「タカユキと天ヶ瀬先輩が!」
「どこまで進んでいるか!!!」
「聞きたいわけよ!!!」
 二人の息もつかせぬ波状攻撃に心底げっそりとする貴之。
「まさか……この為に、あかねと円を二人きりにしてきたのか?」

 ―― 貴之たち三人がバーチャルな戦場で盛り上がっている頃、階下の台所はあかねと円との、もうひとつの戦場と化しているのだろう。
 円はこの短い時間で、あかねの料理を一般人の味覚に最適化する事はできるのか?そのためにどれほどの技をあかねに仕込む事が出来るのか? 
 「我に秘策ありです!」と、円は自信に満ちた顔付きでそう言った。優柔不断が服を着て歩いているような彼女がそこまで言い切ったのだ。そこそこ美味しいものが出来上がってくるに違いない。
 そんなあかねにとって大切な時間に、彼氏である自分がこのザマでいいのであろうか? 先程までのドラハンに熱中していた自分自身の子供っぽさを思い出し恥ずかしくなる。

「でも、天ヶ瀬と月島さんは、マジで二人きりでちょっと話した方がいいんじゃねーの?」
 庄治は携帯ゲーム機の電源を消し、ベッドに背を預けながらペットボトルを口に運ぶ。
「それは、そうだけど……」
 庄治に真っ当な意見を投げかけられ、貴之が口ごもる。
「だからそれはそれ。これはこれ。せっかくだから私達も、タカユキ達がどんな感じに付き合ってるか知りたいわけよ」
「うむ、どうせ天ヶ瀬と月島さんもこの話題だろう。むしろオレ達がこれを聞かないわけがない」
 そうだろう? とお得意のサムズアップを見せる庄治。シエルもその隣でウンウンと頷くばかり。
「……で?」 
 貴之は机の上に携帯ゲーム機を置くと、面倒そうに二人に向きなおる。
「おお! 相馬クン、話す気になったか!!!」
 力なく答える貴之とは真逆に、庄治は拳をにぎりしめて身を乗り出す。
「ムフフ、こういう話って私、結構憧れてたんだよね。ねぇねぇ、なんか女子会みたいじゃない!?」
「わかる! わかるぞ、シエルちゃん! やっぱスッイィーツな時間は男にとっても一度は体験してみたいものなんだ!」
「先輩、こういうの好きそうだよね! キモヲタなのに!」
 微妙に心に突き刺さりそうなシエルの言葉も意に介さず、オタク舐めんなよと嬉しそうに庄治が反論をする。そのゆるみきった悪友の表情に、貴之の意識は地の果てへと吹き飛びそうになっていた。
「……盛り上がるのは勝手だが、そんなに大した事はないぞ、今のところ」
 貴之は何の面白みもない返事をする。その瞬間シエルの目は獲物を狙う野獣のように光り輝き、待っていましたと言わんばかりのカウンターを貴之に打ち込む。
「はっ! ご冗談を! 結婚を前提にお付き合いをする高校生とかが!?」
 伝家の宝刀。シエルの会心一撃。そして貴之にとっては反則技を食らうに等しい痛恨の一撃。
「な、ななっ!!お、おまえ、それを持ち出すか!!?」
「持ち出さないわけないだろう!」
 庄治もまた、満面の笑顔でシエルに言葉に賛同をする。
 ねー? と笑いあう二人の悪魔の姿に、貴之の意識は世界の果てどころか、宇宙の彼方へと消えてしまいそうだった。
「……ダメだ、この二人はダメな方向性で相性が良すぎる」
 貴之はなんとか意識をとどめながら、震える手でペットボトルの蓋を回し、乾ききった咽と心へと水分補給を始めた。
「で、タカユキは、いつどこで天ヶ瀬先輩にエッチな事したわけよ!」
「ブヒュフーーーーッ!!!!」
 何段階も過程を飛ばしたシエルの質問に、貴之は命の水を庄治の顔面へと猛烈に噴射した。ちなみにこの命の水は炭酸飲料水で、目に入るととても痛い事この上ない。
「うぎゃああ!目がぁ!目がぁ!」
 案の定、お決まりの文句を叫びながら、激痛にのた打ち回る庄治。
「わ、悪い」
 まさかの惨事に、貴之も申し訳なさそうにタオルを差し出した。庄治は、うごぉぽこぉ…と謎のうめき声と共にうずくまる。そんな庄治を見ながら、シエルはご丁寧にナレーションを付けるのであった。
「男、丘村庄治ここに散る……ぷっ、あははははは!!!」
 吐いた台詞は渋かったが、シエルの顔は笑いと涙の大バーゲンセールと化し、その美少女ぶりはすっかり台無しになっていた。

「なんか上がすごく騒がしいんですけど……」
 あかねは、手にした箸を口に運ぶのを止め、いぶかしげに天井を見上げる。
「ああ、うん……な、なん、だろうね。ううっ……う、も、盛り上がってるよね」
 円は心ここにあらずといった感じで返事をした。あかねの作った試作品の焼きそばを噛み締めながら、焦点の定まらない目をしてプルプルと体を震わせている。
 それを見て、申し訳なさそうにあかねが水の入ったコップを差し出した。
「あの、無理しなくていいから……」
 
 買出しから帰った円は、ボウルに山と詰まれたモヤシを見て言葉を失った。
 モヤシは財布に優しい食材だ。高校生の財布の中身などたかが知れていることを考えると、今回のような大人数での料理会にはうってつけの材料である。が、いかんせん量が多かった。
 「余ったら相馬家の食事で使うからいいよ」と笑うシエル。だがこの分量では、相馬家の食事は最低二日間、モヤシ祭りで間違いない。すっかり心配になってしまった円は、なんとかモヤシの量を減らすべく頭を捻った。
 結果、あかねには豚肉とモヤシを使った焼きそばを作って貰う事にした。一人前の焼きそばぐらいなら、料理が下手な人でもすぐに作れるはずだし、とりあえずあかねの腕前を知るにも丁度いいだろうと円は考えたのだ。
 ところが出来上がったものは、まるでヒジキにしか見えない代物。あまりに邪悪な風貌をした黒コゲの「ソレ」は、「焼きそばだったもの」と言うのが正解である。

「……ぐぅ」
 一人前の半分のさらに半分を食べた辺りで、円はうめき声と共にそっと箸を置いた。
「そ、そんなに不味かった……?」
 しょんぼりとしたあかねを、キッと睨むと円ははっきりと答えた。
「不味かったです!」
 大人しい円からは想像もできないはっきりとした答えに、あかねはビクリとする。
「う、うう。ごめんなさい……」
 まさかここまでハッキリと不味いと言われるとは思っていなかった。じんわりと涙が出そうになり、あかねは自分の作った焼きそばに目を落とした。
「……やっぱり、あたし料理の才能ないのかな」
 打ち沈むあかねに円が問う。
「天ヶ瀬さん。この焼きそば。自分自身も美味しいと感じた?」
 ドクンッ。
 心を見透かしたかのような円の問いかけに、あかねの心臓は凍りついた。
「……美味しくなかったです」
 あかねは観念して答えた。
 そう、あかね自身も、その焼きそばを美味しいと思えなかったのだ。
 ――でも何故?
 相手が喜ぶようにと「自分の味覚」に合わせないで作ったはずなのに。
 自分の味覚がズレていることは知っている。だから自分の舌では美味しいとは思えないものが、きっと貴之や他のみんなにとっても、ベストとは言わないまでも、少なくとも受け入れられる味になるのではないだろうか。そう信じて作っているのに。
 でも。

「天ヶ瀬さんは、自分も犠牲にしちゃってたんだね」
 円は、うつむくあかねを見つめながらそう答えた。
 またもや一瞬身体をビクリと反応させるあかね。そんな彼女を見て円は少し驚いていた。今回の料理会の話を受けた時、貴之から「天ヶ瀬あかねという少女は実はナイーブだ」という話は聞かされていた。
 しかし、目の前の少女は何かに怯えている小動物のようだ。ナイーブどころの話ではない。
 人気者で元気いっぱいの優等生、天ヶ瀬あかねという人物はもういないと貴之は言った。今の円には、その言葉の意味がハッキリと理解できる。
「ごめんなさい……」
 再び謝るあかねに、円は力強く答えた。
「大丈夫だよ! 天ヶ瀬さんの料理はこれから美味しくなるんだから!」
 あかねが顔を上げる。
 そこには円の頼もしい笑顔があった。

「まず、さっきの天ヶ瀬さんの手並みを見ていて分かった事があります」
 カウンターに、塩、コショウ、ソース、料理酒、醤油、油などを並べていく円。
 あかねは椅子をカウンターに向けると、真剣な顔で頷く。
「天ヶ瀬さんは、最初に油を引きました。しっかりフライパンをアツアツにしてからだったのはポイントと高いと思います。ナイスです」
 コクコクと頷くあかねの仕草はとても可愛らしく、円は思わず笑みがこぼれてしまいそうになる。
 「これは終わり」と手に取った油の入った瓶を端に寄せ、今度は料理酒を手にする。
「モヤシと肉を入れて、料理酒を入れました。ここまでは完璧です」
 というか、失敗し様がない過程である。
 そもそも今回のあかねの料理の手際を見る限り、それはむしろ優れているといってもよい。包丁捌きに関しても問題がない。それを思えば、彼女の欠点はやはり最後の味付け一点に絞られるのだ。
「さて、ここからが本題ですね」
 円は塩とコショウを左右の手に持つ。
「天ヶ瀬さんは、ここでありえない程に塩コショウを入れましたね」
「……はい」
 円から指摘を受けないよう、あかねは塩コショウの量をかなり少なめに加減したつもりだった。それでも、多すぎることには変わりはなかったのかとがっくりと肩を落とした。
「これも問題はありません」
「えっ!?」
 一番怒られるであろう部分をさらりと流されたあかねが声をあげる。
 塩とコショウの入った瓶も、先ほどと同じようにカウンターの端に置く円。
「え、だって、塩辛いでしょ? 濃いでしょ? だからその後に……その色々やってみてるんだけど?」
 動揺してしどろもどろのあかねの姿に、円はとうとう笑ってしまった。
「うん、そう思いました。天ヶ瀬さん、普段だったらあのあとソースいれて終わりにするでしょ?」
 ソースの瓶をカウンターの中央にコトリと置き、円がにこやかに答える。
「あのね、自分では気付いてないのかもしれないけど……天ヶ瀬さんあの後、火を弱めたんだよ」
「???」
 やはり気が付いていなかったかと、円は頷いた。
「天ヶ瀬さん、自分の味を壊そうとして火を弱めたんだよ。きっと味を整えるために時間をかけたくなったんだろうね。でもあれ、余計な事なの。逆効果なの」
「え、だって、私の味付けじゃ、濃いかなって思って……火弱めてた? そ、そんな事したっけ?」
 円はソースの横に醤油を置く。
「どうして、醤油入れたのかな?」
「あ、味がマイルドになるかと思って」
 なるわけがない。
「あのね、天ヶ瀬さん。多分、天ヶ瀬さんの料理はそのままいつものやり方でいいと思うよ」
「……そんなことは」
 納得いかないあかねに、円はたしなめるように声をかける。
「こうしてあげよう、ああしてあげたい。そういう気持ちが先走っちゃったんだよ。天ヶ瀬さんの料理はね、なんとかもっと美味しくしようと、知らない間に余計な過程が入っちゃってるの」
 あかねは「こうすれば他人は美味しく食べられるのでないだろうか」というギャンブルじみた行為をしている。だがそれは一般的な味覚が分からない彼女にとって無謀な挑戦と言わざるを得ない。
「…………少しでも、貴之や、月島さんに美味しいものを食べてもらおうと思って。べ、別にあたしは、どんな味でだって食べれるんだし」
「天ヶ瀬さんは間違ってるよ!」
 大きな声で叱咤する円に驚き、あかねは思わず身体を縮ませた。
 声を出した円も、自分自身に驚きを隠せない。それでもあかねの様子を見ていると、自分がしっかりしないといけない、そんな気分になってしまうのだ。
 庇護欲をそそるとはこのことだろうか。貴之がどうしてあかねに拘るのか、少しだけ分かったような気がした。
 円は落ち込んでいるあかねの前に腰を降ろすと、膝上でブルブルと震える彼女の手に、少しだけ躊躇しながらそっと自分の手を重ねた。
「料理は真心だよ」
 優しい彼女の声と、重ねられた手の温もりに、あかねは申し訳なさそうに顔をあげる。
「一番大事な事を知ってる天ヶ瀬さんは料理が上手くなれるはずだよ」
「……そうなのかな」
「うん。保障する。でもね天ヶ瀬さん、料理は自分自身が美味しいと思えなきゃダメなんだよ?」
 円は重ねたあかねの手をギュッと握る。
「さぁ、立って立って! 私に任せてよ!」
 あかねは円に引っ張られるように立ち上がると、自信なさげにウンと頷いた。

「ったく、冗談じゃないぜ!」
「だから、申し訳ないって……」
 洗面所で顔を洗ってきたものの、庄治の目は微妙に血走っている。
 庄治の災難は自業自得だ。それでも、他人に対して口の含んだ飲み物を全力でぶちまけるという行為は、さすがに謝るべき事だと思ってしまうのが貴之らしい。
「ヤバイ、今年一番笑ったかもしれない……」
 シエルは未だに肩の震えが止まらず、手で口を押さえて笑いをこらえている。どうやら目の前でテレビのコント番組のような事が起こったのが余程ツボだったようだ。コイツはなんで自分がこの騒動の当事者だと思ってないのかと、貴之は呆れを通り越して感心していた。
「……よっしゃ! ここまで狼藉を働かれた以上、きっちりと話してもらうしかあるまいな!」
 気合を入れた掛け声と共に立ち直った庄治が、再び貴之へとその好奇心の矛先を向ける。懲りない男である。
「うん、私もちゃんと聞きたいな」
 シエルもこみあげる笑いを押し殺し、庄治の後押しをする。
「ふぅ……さすがに話すよ。なんか疲れてきたし……」
 貴之はベッドに腰掛けると、これからエサを貰う子犬のような顔で座布団に座る二人を見る。
「今からガッカリさせることを言うぞ……」
 一息入れて力強く言い放つ。
「あかねと僕には、まだあの経験はない!」
 静まり返る貴之の部屋。
 台所からはかすかにあかねと円の声が聞こえて来る。
 ひょっとしたら、先程の馬鹿騒ぎの内容も彼女らに丸聞こえだったのかもしれない。それをネタに二人が盛り上がってくれたら嬉しいなぁなどと、小さじ一杯分のぐらいの期待をしながら貴之はため息をつく。
「い、いやちょっと……待てよ! お前何してたんだよ、今まで!!!」
「そうだぞ、タカユキ! まだエッチしてないとか正気か!? あ、まだペッティングまでって事か!?」
「おい、シエルちゃん! それは直接的すぎんじゃね!!!」
「いや、だって! だって結婚って……あれ!? ドユコト!?」
「いいから気を落ち着けるんだ! 美少女! 君は一応美少女で通ってるんだから!」
 あまりに現実感のない答えに動揺した二人が、なんだかおかしな事になっている。
 そんな二人を白けた目で見る貴之が、さらに情報を上乗せした。
「……ちなみに僕は、まだあかねとキスもしたことがない」
「ええええええええっ!!!」
「んな、アホなぁああああ!!!」
 シエルと庄治は立ち上がり、ベッドに座り続ける貴之を見下ろす形になる。そんな二人を見上げながら、貴之はペットボトルを持つと、今度は噴き出さないから安心しろと口に含む。
「ぷはぁ……だから話したくなかったんだって。経験があったほうがまだ恥ずかしくないだろ?」
 恥ずかしいレベルなど完全に通り越し、一連の流れで消耗しきっていた貴之は気だるそうに答える。
「お、おう。確かにこれは恥ずかしいな。それで結婚とかびっくりだぜ……」
「わ、私も驚いたわ。何やってんのアンタは……」
 よろよろと座りなおした二人は放心状態で貴之を見つめた。
「……質問だ、相馬」
「ん、言ってみ」
 先程までのテンションの高さはどこへやら、一気に授業中のような緊迫感に包まれた部屋で、庄治が改めて会話を切り出した。
「天ヶ瀬は、その、なんていうか、貞操が堅いのか?」
「ああ、うん……。普通はそういう発想になるよな。そう思うのももっともだ。でも、残念ながらブッブーだ」
 開き直った貴之は、庄治の質問に軽やかに答える。
「んじゃ私からの質問だ、タカユキ」
「はい、どうぞ」
「タカユキは、天ヶ瀬先輩とエッチしたくないのか?」
 先程からシエルがうら若き乙女とは思えない発言をしているようだが、気にしないで貴之は答える。
「したい。ものすごくしたいぞ。ぶっちゃけ、キスだけでいいからしたくてしょうがない」
 あまりにもストレートな欲求の告白に、シエルがたじろぐ。
「……そういうキャラじゃないだろう、お前?」
「う、うん、ちょっと追い詰めすぎてしまったかもしれないな……」
 心配そうに顔を見合わせる二人に、貴之は大丈夫だと顔を上げる。
「心配するなってのが無理な話だろうがな。まあでも、僕らには僕らなりの付き合い方がある」
 曇りなき眼差しと、強い意志で満ちた顔。
「なんで、そんな自信満々なんだ、お前は……」
 今度は庄治が呆れる番である。
「なぁ、お前、そんなんで大丈夫なのか?」
 貴之にもどかしさを感じながら庄治は続ける。
「そりゃオレは恋愛とかした事ないから一般論でしか話せないけどさぁ……。順番が逆だろう? なんにもなしでいきなり結婚とか……。いくらなんでも、事を急ぎすぎっていうか、ちょっと歪んでないかお前らって」
 庄治のもっともな指摘に対しても貴之は怯まない。貴之の顔にはただ一つの迷いもなかった。
 その表情を見てシエルは理解した。貴之のあかねに対する想いがそんな表面的なものだけではないことを。そして自分の思慮の浅薄さを。
「ごめん、タカユキ。聞いちゃいけない事だったんだな」
「おい、シエルちゃん、いいのかよ……」
 まだ納得がいかない庄治であったが、シエルが引いてしまった以上はもう口出しできるはずもなかった。
「ごめんな、二人とも。でも大丈夫だから。見ててくれ」
 貴之の瞳の力にシエルは見惚れた。それは、これまで彼女が何度も助けられて来た眼差しだった。
 だから分かってしまう。他でもない、貴之の妹として彼の隣に居続けたシエルにはわかってしまうのだ。貴之は、まだ苦しんでいるに違いないあかねを救い出したいのだ。それに自分の人生を賭けてしまえるほど、あかねの事を愛してしまったのだ。
 たった一人を助ける為、それ以外の人に迷惑をかけてでも、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに突き進む貴之。馬鹿で頑固者だが、そんな彼だからこそシエルにとっては自慢の兄なのだ。
 彼が一生を賭けてでも救いたいと思った女性に出会えた事は祝福しなければならない。自分の好きだった兄が、自分の好きだった人のまま、誰かを愛したのだから。 
「タカユキ、天ヶ瀬先輩を幸せにするんだぞ」
 その一言を、その願いを、シエルが貴之に伝えずとも彼は叶えてしまうと分かっていても。それでもシエルは、この言葉を貴之に対して言わなければならなかった。
「……私との約束だ」
「ああ、約束だ」
 一度決めたら絶対にやり通す、そう覚悟を決めた時に見せる貴之の顔付きに、満足そうにシエルは頷いた。
 二人のやりとりを見ていた庄治も、もうお手上げだというジェスチャーで言った。
「オレはシエルちゃんほどお前との付き合いが長いわけじゃない。ただ、お前がどういうヤツなのかは結構わかってるつもりだ。だからよ……」
 庄治は貴之の背中を思い切り叩く。
「お前はお前のやり方でがんばってみれ!応援はしてやっからよ!」
「ふん、お前に言われるまでもないっての」
 悪友の荒っぽい祝福に顔を歪めながらも、まんざらでもなさそうに貴之は答えた。
「ところでさぁ……」
 一転して悪魔の顔に戻った庄治。
「キスしたくてたまらない、っての、天ヶ瀬に言っていい?」

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