『Summer vacation Quartet』#06*天ヶ瀬あかね編


#06/潰れる胸と理不尽な格差・そして運命の第二セット‏

サマーバケーション・カルテット

――#06

 温泉旅館の醍醐味と言えば何を想像するだろうか。
 趣ある露天風呂?
 広々とした浴場?
 効能豊かな泉質?
 贅を尽くした料理の数々?
 無礼講の宴会?
 憩いの時間?
 ――いや、何か大事な事を忘れてはいないだろうか。
 
 高速で飛び交う白く輝く小さな球。軽く弾ける音、それでいて何者をも寄せ付けないほど圧倒的な威圧音。部屋の中央で緑色の大きな台を挟み、四人の男女が熾烈な戦いを繰り広げていた。
 そんな彼らの戦いが、雨で退屈をしていた宿泊客の興味を引くのにさして時間はかからなかった。
 ギャラリーの見つめる先にあるもの、温泉の醍醐味――それは卓球!!!
 英語で言うとテーブルテニス!!!

「!?」
 高速ラリーの中、唐突に和泉の打ち返した緩やかな球をラケットに受けた凪は驚愕した。
 これまで渾身の力で打ち返して来た和泉の切り札はなんとナックルボール、つまり無回転ボールだったのだ。凪は何とか返球したもののイージーボールで返すのが精いっぱい。緩い上回転をもった球は相手のコートに落ち、そして再び大きく跳ね上がる。まるでスローモーションのようにゆっくりと上昇するピンポン球にギャラリーは息を飲む。
 そんな観客のゆったりした時間の流れとは真逆に、凪の動きはまるで早送り再生を見るかのようだった。彼女は素早くパートナーの了輔に場所を譲るために後方へ飛びのいたのだ。代わって了輔はコートの中央に立つ。どのポジションに球が打ち返されたとしても対応できるよう、台から三歩下がりつつだ。 
 軽く腰を落とす。
 来る。
 彼の瞳に映るもの、それは大きく飛び上がった金髪の少女。
 そして――
「アチョーーーーーーッ!!!」
 剛速球。いやすでにそれは弾丸と言うべきか。
 シエルの放ったスマッシュは、テニスのサーブのように急角度から勢い良く台へと叩きつけられた。
 了輔の生まれながらに備わった驚異的な反応速度をもってしても、加速したその弾丸は止められない。それはラケットにかする事もなく後方へと飛びさっていった。
「うわ、あぶなっ!」
 後ろで見学をしていた男性がとっさに球を避ける。
 壁に当たって跳ね返った球は床で何度も小さく跳ね、小学生ほどの少年がそれをキャッチした。その瞬間、静まり返っていたギャラリーから歓声が上がった。
「”十一対六”、第一セットは和泉シエル組……」
 プレイヤーやギャラリーに反し、貴之はやる気のない声で勝利組へと手を伸ばす。心底ウンザりした顔だが、この場にいる人間に彼の顔色に注目する人間はいなかった。
「おっしゃぁあああ! 決まった!」
 額に汗を浮かべたシエルが勝利の咆哮をあげた。隣に立つ和泉が左手を軽く掲げ、大きく手のひらを広げるとそれをシエルへと向ける。
「へい!」
「いえい!」
 シエルは軽くジャンプしながらその手を叩くと、再び歓声が飛び交った。
「金髪ねーちゃん、かっこいいぞー!」
 ボールを拾った少年が鮮やかなオレンジの球をシエルに向かって投げると、華麗に左手でキャッチし彼女はニヤリと笑った。
「いやぁ、すごいもんだね。こんな卓球、長年ここに通ったワシも見た事がないよ」
 初老の男性が感嘆の声を上げながら拍手をする。同じようにシエルと和泉を称賛するギャラリーの声を聞きながら、二人は鼻高々であった。
 そんな様子を見て、貴之は大きく溜息をつくとコートチェンジを促した。
 二セット目は互いの場所を交換してからの再スタートとなる。タオルで汗を拭きながら了輔は爽やかに凪へと話しかけた。
「どんまい、三咲くん。落ち着いていこう」
「……はい」
 了輔の声に凪は静かに、しかし力強く返事をする。冷たい緑茶のペットボトルを床に置くと、鋭い視線でシエルと和泉を睨んだ。
「負けられません、この勝負……」
「そうだね。僕らの意地を見せようじゃないか」
 凪は自分の胸に手を当てると、プルプルとそのその小さいな身体を震わせた。
「小さい胸の存在価値を否定されるなんて……好きで小さいわけじゃないのに……」
 怒りと悔しさが混じったその声に了輔も気を引き締める。
 彼らは大事なパートナーである凪(正確には凪の胸)を馬鹿にしたのだ。とても黙っていることなど出来なかった。
「そうだとも! 貧乳が巨乳なんか負けるわけがない! がんばろう、三咲く、あぎゃ!!」
 凪に思い切り足を踏みつけられた了輔は、涙目になってピョンピョンと飛び跳ねた。
「でも、これじゃ……」
 彼女は自分のラケットを見つめた。そのラケットの形は本来の彼女の得物とは大きく姿が違っていたのだ。おそらく凪は本来の力の半分ほどしか出せていない。それが歯がゆいのだろう。凪はタオルで自分の顔を押さえつける。それでもやりようはあるはずだと、彼女は小さく呟いた。

 反対側のコートではライバル達の様子を見ながら、和泉もまた水分補給のためにペットボトルに口をつけていた。その顔にはワンセットを先取した余裕が感じられる。
「あいつら、まだまだ負けを認める気はないようだぜ」
「大丈夫、花房先輩は基本スペックだけで戦ってる感じでそれほど練度は高くないし、三咲先輩も上手いには上手いけど、なんか怖くないんだよね」
 隣に立つシエルの冷静な分析に和泉は頷いた。
「とくに三咲はイージーミスが多い。狙うならアイツの方だ」
「ふふん、いくらブランクがあるとはいえ嵩鳥町子供会無敵の三連覇コンビ、嵩鳥の双蛇と呼ばれたらウチらの相手じゃないね」
「ああ、蛇のようにしつこく強暴な速攻、俺達の戦いをみせてやろうぜ」
 自信満々で余裕の表情の和泉とは違い、シエルは先取点を取っているとは思えないほど余裕がない。瞳の奥には炎が燃え上がり、背中から黒いオーラが立ち昇っている。
「……私だって好きで大きな胸になったわけじゃない。こっちだって気にしてんのに、まるで脳なしみたいに言いよってからに、ぐぬぬ……」
 凪を睨みつけるシエル。彼女の言葉に頷く和泉も同じく了輔を睨みつけていた。
「ああ、貧乳以外はまるで価値がないと言わんばかりのあいつの態度。許せネェ……」
 女はふっくらとしたボディであるべきだという持論の和泉。こっそりと貴之の後ろにあるベンチで呆けている円を覗き見しながら、和泉はラケットを持つ手に力を込める。
「やっぱり女はぽっちゃり型だろう! あのぐらいがいいんだって! 胸も腰周りもケツも! お前もそう思うだろ!?」
 同意を求め興奮する和泉を殴り倒したい衝動をシエルは抑える。目の前には凪に足を踏まれ飛び跳ねる了輔の姿があったからだ。
 シエルも和泉をKOしてしまいたい気持ちでいっぱいだったが、今ここでそれは得策ではない。まずは目の前の敵を屠ること、それこそがシエルの最大の目的なのだ。
「……そうだな。怒りはコートにぶつけよう」
 シエルは自分に言い聞かせるかのように心の中で呟く。
 思考はクールに、そして感情は熱く。
「はいはい。そろそろはじめるぞー。両チーム、構えて」
 まるで熱量の違う貴之の呑気な声。
 運命の第二セットが始まる。互いの意地をかけた貧乳対巨乳の頂上決戦が。
「……いやいや。なにこれ?」
 少し離れたベンチに座るあかねは、湧き上がる歓声の中で、ただただ呆然としていた。
 そもそも何故こんな事になっているのか?
 全てのはじまりはシエルの何気ない一言から始まったのだった。

「ああ、肩がこる……」
 風呂から上がったばかりのシエルが、自分の肩を少々乱暴に叩きながら小さく呻く。
 昨晩から続いていた予想外のハプニングに、さすがのシエルも少しばかり参っていた。
 それに追い討ちをかけたのが、温泉内でのあかねと円のギャルトーク。
 そのあまりといえばあまりに赤裸々かつ乙女ちっくな会話は、現実主義者のシエルには猛毒としか言いようがなかったのだ。
 凪には、そんなシエルの内心など知るよしもない。テーブルにつっぷして潰れてしまっているシエルの豊かな胸をなんとも苦い表情でただ凝視していた。

 温泉旅館ならではの大休憩室。
 扇風機の前ではしゃぐ子供の大声がキーンと耳に響く中、畳の上で大の字に寝転がる人。
 大きなテレビの前で、ビールを片手に高校野球の中継をかじりつくように見る老人達。
 ありふれた温泉宿の光景である。
 そんな空間で、温泉から上がったシエルと凪は仲良く……いや、なんとなく一緒に同席していた。
 あかねと円は最近やたらと仲が良く、一緒にいることが多くなった。あかねの親友である凪、円の親友であるシエル、普段ならまず二人で行動することのないこの二人が、結果的にこうしてあぶれてしまうケースも珍しくない。
「……気まずい」
 シエルはぽそりと呟く。
 だらしなくテーブルにつっぷすシエルだったが、内心は向かいに座る凪の存在に緊張していた。
「ううっ、気まずいなぁ……」
 そう思っているのはこちらも同じなのだろう、凪も不安そうにチラリとシエルの方を見る。
 シエルの美しい金色の髪はまだかすかに水分を帯び、普段よりも艶めかしく感じられる。
 凪はシエルより一つ年上ではあるものの、見た目だけなら凪のほうが圧倒的に子供っぽいのは間違いない。しっかりとメイクをして舞台に上がりさえすれば凪も女優のはしくれ、それなりに自信はあるのだが。
 それにしてもここまで体型も見た目も圧倒されると、凪としてはヘコまないでいるというのも無理な話だ。
 しかもシエルは堂々とした態度でハキハキと喋る。気弱でいつもオドオドしてる凪からすれば、ほんの少しでもいいのでシエルのような自信を持つことが出来ればどれほど心強いだろうか。
 つっぷした状態のままで大きなテレビへと目を向けているシエル。その深く蒼い瞳を凪は見つめる。まるで吸い込まれそうなサファイアブルー。
 凪が気後れするしてしまうのも無理もない。
 そんな想いを持つ凪の正面、だらりと座るシエルもなんとも浮かない表情。
「円やあかねさんがいれば、凪さんとも気軽に話せるんだけどなぁ……」
 これまた蚊の鳴くような小さなシエルのつぶやき。
 シエルにとっては和泉とのケンカや仲直りなどよりも、今この瞬間の方がよほど胃が痛くなる状況だ。
 三咲凪は先輩と呼ぶにはあまりに幼い容姿をもつ少女である。中学生だと紹介したならば、騙される人は九割を超えるとシエルは確信している。
 だが、その幼い容姿からは想像もできないほど彼女は女優としてのスキルを持ち合わせており、一乃谷高校では有名人の一人にカウントされている。非公式三咲凪ファンクラブの存在も、庄治のでまかせではないのかもしれない。
 そして何よりも彼女は女性らしい。
 今回の旅行メンバーの女性陣では、円がかなり女の子としては完成しているものの、凪のしとやかさに比べれば円のそれはあくまで平均的な女子高生レベルにすぎない。
 あかねは乙女という点では圧倒的にメーターが振り切れているが、根本的にはシエルと同類の活発な少女であり、女性らしいとはお世辞にも言えたものではない。
 どうしてあかねと凪は大親友になれたのだろうか。その経緯を知らないシエルからすれば、彼女ら二人の関係は謎でしかない。
 それほどまでに凪から放たれるオーラには気品があふれており、同じ女性としてシエルも思わず怯んでしまうのだ。
 とはいうものの、凪とシエルが互いを嫌っているというわけではない。
 今の状況は、互いのコンプレックスのぶつかりあいにすぎないのだ。

 それでも、これでは埒が明かないと先に考えたのはシエルの方だった。どのような時でも先陣を切っていくのが自分の役目だとシエルは思っている。それが彼女、雨宮シエル織姫のポリシーなのだ。
 
 よしいこう!
 
 活を入れたシエルが口を開こうとした瞬間――
「三咲くんに、雨宮くん。ずいぶん早く上がっていたんだね。まさか男の僕よりも早いとは」
 キラキラとした笑顔をふりまく了輔の登場にシエルの心はたやすく折られてしまった。
 意を決して起き上がろうとした身体には先ほどいれた活などすでに一ミリも残っていない。
 最初のポジションであるテーブルの上へ頭を戻したシエルは、アゴでテーブルをこすりながら了輔へと視線を移した。
「……ええ、まぁ」
 歯切れの悪い返事に了輔への非難があったわけではない。
 あかねと円のちちくりあいに顔を赤らめて先にお風呂から上がってきたとは、さすがに説明がしづらかっただけだ。それは凪も同じ感想のようで、苦い笑いをしつつ了輔を迎えていた。
「あ……と、隣座ります?」
 自分の隣の席へ了輔が座れるように、凪は少しだけ自分の椅子を淵へとよせる。
「いいのかい?」
 了輔は凪の心遣いに感謝しつつ腰を下ろした。
「おー……」
 ただイスに腰掛けるという動作にすぎないのだが、了輔の憎らしいほど優雅な所作にシエルは感嘆の声をもらした。
「なんていうか……花房先輩がやたらモテるのわかる気がします」
「ははっ、ありがとう」
 シエルの少しばかりひっかかりのあるような称賛にも、あくまで華麗に受け答えをする了輔。
 彼を見ていると、シエルは幼馴染である二人の男性の余裕のなさを改めて感じる。良家のおぼっちゃまである了輔と比べることが少々酷であることは重々承知の上ではあるのだが。
「ところで、先輩は確かにかっこいいんですが……」
 それとこれとは別の話だろうと、シエルは冷たい目で了輔へと無言で非難の声をあげる。
「ん? どうしたんだい?」
「いやいやいや…………、どうしたっていうか、そこまで私の胸をガン見されましても」
「気にしないでくれ」
「……気にしないでって言われても。なんかあまりに当たり前にそう答えられると、おかしいのは私の方なんじゃないかって不安になるんですが」
 シエルはテーブルから起き上がると、今度は浅く腰掛けた状態で椅子に背を預けズルズルと崩れ落ちる。
 昨日の今日なのでさすがにブラジャーをしっかりつけていたシエルの胸だったが、それでも微かに揺れる様が浴衣の上からでもわかった。
「……いいなぁ」
 今まで黙っていた凪だが、その理不尽な格差ににとうとう我慢ができなくなり、シエルに羨望の眼差しを向ける。
「む……やはり三咲くんも胸が大きいほうがいいのかい?」
 それを言っちゃっていいの? といった花房の直球の質問にシエルは目を見開く。
「え、花房先輩、それは……」
「いやぁ、昨晩は随分三咲くんを怒らせてしまったようで、こちらとしては本意ではなかったのでね」
 シエルに返事をしながら、隣に座る凪へとウインクをする了輔。
「あ、あはは」
 凪は乾いた笑いで返すしかない。
「だが、しかし……」
 ふむ、とアゴに手をあてた了輔は、まるで芸術作品を見るかのように再びシエルを舐めまわすように見る。
「あの、通報レベルですよ、それ」
 了輔のあまりのイケメンっぷりに腰が引けていたシエルだったが、どうやら中身は和泉や庄治とあまりは変わりはないらしいと認識を改めざるを得なかった。
「いやね、雨宮くんの胸は触り心地がよさそうだ」
「うわぁ……」
「花房さん……」
 シエルと凪は凍てつくような眼差しを了輔に向ける。
「うん、だが僕はそういうのにとんと疎くてね。昨日、経験豊富そうな相馬くんに聞いてみたのだが……」
「それ聞いたの!?」
「え、聞いたんですか!?」
 ある意味了輔は恋愛における情報源としてはリーサルウェポンなのかもしれない。
 貴之とあかねの進展状況をここまで直接聞ける人間は、彼女らの周りには存在しなかったからだ。
 シエルと凪は、了輔の無神経ぶりに戦慄しながらも、同時に身体をグイと乗り出した。
「そ、それでタカユキはなんて?」
 シエルの質問に、凪もうんうんと力強くうなずく。
「ん? うん、それがね、なんだか上手くはぐらかされてしまったんだよ」
「なーんだ……」
「残念です……」
 肩を落とす了輔だったが、それ以上に二人の女子はガッカリとした表情を見せた。
「……でも意外です。花房さんもそういう、えと、恋愛話とか気になる方だったんですね」
 完全無欠かと思われた了輔の俗っぽいところに触れた凪は、あらためて自分のパートナーの人間性を垣間見て小さく笑った。
「? いや、僕は天ヶ瀬くんの慎ましい胸でも柔らかいのかが気になっただけさ」
「…………はい?」
 凪のまわりの空気がカチンと固まる音が聞こえる。
「いやいやいや、先輩それは……!」
 なんなんだこの人は、とシエルが再び不穏な空気を払拭しようとしたのだが。
「そうだ、そろそろハッキリさせておこう」
 キリっと引き締まった顔で了輔は凪の手を握った。
「え、ちょ!?」
「僕は小さな胸が欠点だなんて思っていないよ、三咲くん」
 凪は動転しながら、握られた手を了輔の手を交互に見る。
「むしろ小さな胸が醸し出す美しい女性の身体のラインに、僕は芸術性を感じている」
 完全においてきぼりを食らったシエルの目はまさに点になっていた。
「だから、僕は相馬くんに聞いてみたかったんだ。小さな胸でも女性は柔らかく素敵なものなのかって」
 もはやどこが着地点か了輔自身もわかっているのかわかっていないのか。
「スレンダーな美しい女性の胸がとても柔らかいなんて最高じゃないか!」
「は、はぁ……」
 凪の顔が赤くなる。どうやら自分は絶賛されているらしいことだけは理解できた。
「つまり、大きな胸がなんだ! そんなもので母性をはかろうとするものなど僕にとって敵でしかない! いや、そもそも大きな胸が僕の敵だ! そのせいで世の男性は全てが巨乳好きであるかのような風潮に、僕は一石を投じたいんだ!」
「あ、ありがとう……ございます?」
 熱弁を終え鼻息を荒くする了輔に凪も一応感謝はしてみた。全く意味はわかってはいなかったが。
 そんな凪の瞳にポカンと大口を開けているシエルの姿が映る。
 が、凪としてもなんと声をかけていいものやら。
「聞き捨てならねぇなぁ」
 ゆっくりと、しかし強烈な怒気を含むその声に、シエルは我に返り後ろを振り返った。
 そこには庄治を始末しただけでは飽き足らないのか、未だに負のオーラを撒き散らす和泉が立っていた。
「大きな胸には母性がつまってるよな? そうだよな?」
「え? 和泉? 何言ってんだ?」
 シエルの肩に手を乗せた和泉は、鋭い眼光を了輔へと向けた。
「……結城くんは、見た目に惑わされてるんだね。可愛そうに」
「はぁ? おまえ、ちょっと表出るか?」
「こんな雨の日に、風呂上りにまた外に出ろと? はは、君は意外に常識がないんだね」
 舌打ちをしながら和泉は腕を組み了輔を見下ろす。
「あのなぁ……。貧乳に母性なんかつまってねーんだよ。わかるか? そういうのは特殊な性癖っていうんだ」
 了輔の瞳に青い炎が灯る。ゆっくりと椅子から立ち上がると、身長がわずかに高い了輔が今度は和泉を見下ろす形になる。
「特殊な性癖といったね?」
「言ったがどうしたよ」
 なんなんだこれは。
 呆れ果てたシエルが頭を抱える。
 だがこれはリアルだ。今ここでおきている現実なのだ。
 たかがバストサイズで、火花を撒き散らしている男が今にも殴り合いになりそうな現実なのだ。
「ま、まぁ、二人とも落ち着けよ」
 仕方なくシエルは仲裁に入るのだが――
「おまえもおまえだ、今馬鹿にされたぞ、大きな胸をよ! おまえの自慢の大きな胸をよ!」
 酔っ払いの戯言のような言葉だったが、シエルは少しだけキュンと胸をときめかせた。
 まさか和泉が自分のためにここまで腹を立てるなんて思っても見なかったからだ。
「それに円の胸もだ! あいつから母性をとったら何も残らねぇ! そんなアイツの唯一のとりえをコイツは全否定しやがったんだ!」
「……あー、ハイ。私のちょっとしたトキメキ返してくれるかな?」
 シエルはもう勝手にしてくれとがっくりと項垂れた。
「結城くん、それは少々雨宮くんや月島くんを侮っていないかい? 彼女達の胸がたとえこぶりだったとしても、その母性は変わらないはずだ」
「そんなもの結果論だろ!? 円は今泣いてるんだ!」
「いやいや、泣いてないし」
 馬鹿な野郎共の白熱する口論に一応はつきあうシエルだったが、もはやまともなツッコミが機能しているのかも謎だ。
「「……っ」」
 睨み合う二人のイケメン男子。まさに一触即発。
 このままでは昨晩の二の舞になりかねない。それほどまでに二人の女性の胸にかける情熱は桁外れのようだ。
「と、とにかく落ち着いて、こんな事で喧嘩なんてダメですよ」
「全くだ! 私はともかく先輩まで巻き込むなっつーの!」
 凪は了輔の腕を恐る恐るひっぱり、シエルは和泉の脛へと軽くローキックをいれた。
「いって! なにすんだ!」
「いいから静かにしてろ!」
 これ以上騒ぎを起こして怒られるわけにはいかない。
 いくら了輔の叔父がこの旅館のオーナーとはいえ、さすがにこうまで問題づくしでは追い出されるのではないだろうか。なけなしのバイト代をはたいて遊びにきたシエルにとって、それはあまりにも悲劇的な結末。全力で阻止しようとするのは当然である。
「ほら、花房さんも」
 再びクイっと凪は了輔の腕を引っ張る。
「……三咲くんがそう言うのなら」不満そうな顔つきでシエルの隣の席へと腰を降ろす和泉にならい、了輔も渋々と腰掛けなおした。
「ふぅ……」
「はぁ……」
 凪とシエルは安堵の声をもらす。
 二人の険悪ムードは持続中だが、どうやら最悪の事態は免れたようだった。
「そもそも女を胸でしか見てないのかアンタは?」
「そ、そんなわけじゃねーけどよぉ……」
「じゃ、どんなわけななのさ」
 シエルは和泉の足をグリグリと踏みつけ睨みをきかす。
「花房さんも、あんまりそういう事いってると軽蔑しますよ?」
「ぼ、僕は君の為を思って」
 女性二人の冷たい眼差しと共に説教を受け、縮こまっていく和泉と了輔。
 学内での人気はかなり高い二人であったが、中身はそこらに居る高校生男子とまるで変わらないのだ。いやむしろ酷いぐらいである。彼らが普段あまり親密に女性と接しないのはある意味正解なのかもしれない。女子達の期待を裏切らないという意味で。
「疲れました」
「たかが胸の話題でここまで熱くなるとか、なんなんだ」
「……私もそう思います
「おい、たかが……って」
 反論しようとした和泉だったが、シエルの眼力によって言葉を続けることはできなかった。まさに蛇に睨まれた蛙である。
 そそくさと目をそらす和泉を傍に、シエルは呆れ混じりに大きく息を吐いた。
「そもそも、大きな胸に憧れるなんて女……なんてのが男の妄想じゃねぇかなぁ」
 シエルは脱力したかのように椅子の背にもたれかかると、静かに目を閉じた。
「女からすれば胸の大小なんてそこまで気にしてないと思うんだよね」
 シエルにとってはバストサイズなんてものは、せいぜい下着の大きさや服のサイズに気を配るぐらいといった程度の認識でしかない。あとはそれこそ肩がこるというべき存在。
 ナイスプロポーション。
 古臭い言い回しだがシエルはこれまで幾度となくその言葉を男性から使われたことがあった。
 シエルにとって、数少ない女性らしい部分を褒められることは悪い気がするものでもなかったが、彼女の男勝りな性格の前ではそんな長所もあまり効果的に働かなかった。いや、むしろ大きな胸なのにこんな性格であることはマイナスにさえなっている。
 つまり、見た目がいくらよくても内面がそれについていかなければ意味などないのだ。
「男は胸の大きさから性格まで測ろうとするけど、どうしてそんなに考えがテンプレートなんだか。笑っちゃいますよ、ホント」
 これはシエルの自虐である。
 ハーフという性格上、見た目から様々な苦労をしてきた彼女ならではの言葉だ。
「そもそも見た目をそんなに気にしてたら内面がスッカスカになっちゃいますって。まぁ、女の見た目ばっかり気にする男には、見た目ばっかり気にする女性のほうがお似合いなんでしょうけどね、ははっ」
 などと軽く笑いながら目を開いたシエルの前には、本日の二人目の阿修羅が座していた。
「……あれ?」
 ゆらりと立ち上がる凪の瞳に暗き炎が灯る。
 そして――

「絶対に負けません!」
 凪のラケットを握る手が憤りで震える。
「勝つ!!」
 その対面、シエルはピンポン玉を空中高くほうり上げると渾身のサーブを打ち込む。
 こうして運命の第二セットの幕は上がった。

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